昭和五十四年六月一日 朝の御理解
御理解第四節「此方金光大神あって天地金乃神のおかげを受けられるようになった此方金光大神あって神は世にでたのである神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である金光大神の言ふ事に背かぬやうよく守って信心せよまさかの折りには天地金乃神と云ふに及ばぬ金光大神助けて呉れと云へばおかげを授けてやる」
「まさかの折りには」と言うておられます。「天地金乃神と言うに及ばぬ金光大神助けてくれと言へばおかげを授けてやる」ここで、まさかの折りと言うのは、常日頃からの信心を大切にする。教祖金光大神の言うことに背かぬよう、よく守って信心せよ、と言うことは、が、前提になっているわけですね。
それは、実際問題としては教祖金光大神の言うことに背かぬようにというが、言うなら背いておる、または守っていない、それでもやはり、まさかの折りには金光様と唱えれば、確かにおかげを頂かれる。皆さんも体験しておられるごと。
私が常日頃、教祖の教えを守っているから、と、言へる人は沢山いないと思うです。ね。けれども、やはりおかげは頂いておる。ですから、私はここで大事なことは、そのまさかの折りには、と、言うのぢゃ常日頃の信心が、なるほど、なかなかもって教祖様のみ教えをそのままに頂くということは、出来なくても一言でも二言でも、言うならばお道の信心、ま、み教えを生活の上に表して、そこから神様を日々身近に感じさせてもらう、神様を身近に頂かせてもろうての、その信心生活が大切だということでう。ね、常日頃の信心、金光大神の背かぬようによく守って信心せよ、まさかの折りには、とこう言う。
だから、まさかの折りではない、もう日々が本当に神様のまちがいない働きを、身に心に感じての信心、それが、いよいよ的確な、または確かなものになっていくところに、信心の、言うならば、確立ができてくるわけでございます。ま、結局は、「信心の確立を願えよ。」と言うことになります。そうした信心の喜びが頂けるようになって、初めて金光大神が、私共の、言うなら、大恩人であると同時に、成程、天地金乃神様が神からも恩人、と仰っておられるような内容、そういう意味が段々わかってくると思います。
今日、私は六月一日の今月の信心を願っておりましたら、いくつもの、何人もの人がお提灯を、提灯を持っておるところを頂いた。
ところが持っておるけれども、『只提灯を持っておるというけで中に光りが灯ってない』と、いうような状景を頂いたんです。
「ついて来なさいこの提灯に決っして苦労はさせぬ」と、ま、言うような歌の文句ですけれども、ね、提灯にだけはついて来ませんもんね。中に光りがついておるから、その足元だけでも照らすものがあるからついてくるのです。
ハハァ、お互い、信心の焦点は一つ、ね、本当に信は光りなり、と言った人がありますが、確かにそうです。その光りの頂ける、言うならば、合楽示現活動に参画させてもらう、ね、光りをもたずについて来なさい、と言うても、提灯だけにはついちゃこん。 提灯に光りが明々と入っておって、成程、足元を照らしてやりながら、言うなら、示現活動をするから、人も導かれもする、ついてくる事になるのです、ね。そこで、なら、信とは、光りとは、ということになるわけですよね。
「いくら言うたっちゃついてこん。」と、言うなら、まず、自分自身の信心の光りがないことを悟らせてもろうて、今日私が、いくらもの提灯をもっておる人達の中に、火が入ってない。だから、この提灯に火が入った時に、それこそ皆が連れていってくれ、と、いうことになるんです、ね。足元が暗い中に、お互い手さぐりな生き方をしておる人達が沢山なのですから、ね。
結局、所謂、信心の確立なんです。本当の信心が確立される、と、いうことなんです。動かないね。昨日、研修の終わってからすぐ、田主丸のむつやの信司郎さんが、ここでお届けに見えて、今日から大体、京都行きがあるんです、ところが、「どうさせて頂こうか。」と、いうお伺いでした。だから、「あんたどげん思うか。」ち言うたら、「いや、私はどうでんよかですから、御神意を頂いて。」「そんならあんた金使うてから行かんがよかばい。」ち私が申しました。それで、いかんがよかことになった。
「ところが、あまりにも、行かんがよかが何か、何ていうですか、気にかかるわけですよね、そして帰ってから、いろいろ考えてよったら、これは自分のお取次の頂きぐあい、頂くその内容がまちごうておった、と、悟らせて頂いて、また出てきた。ね。昨日のご理解の中に、「仕えまつりて白さく。」と、いうことがね、自分は全然仕え奉らず、只、答だけを頂こうとした。これは自分がまちごうとった、として、あらためてお参りをしてきて、あらためてお伺いさせて頂いた、ね。そしたら、行ったがよかろう、ちいうことであった。ね、例えば、なら、呉服なら呉服という商売をさせて頂いて、それこそ、年に何回かの京都行きというには、もう大変な、実を言うたら、ものを、言うなら品物を仕入れてくるだけぢゃない、ね、呉服屋として、京都へ行くという事は、大変な勉強でもあるのだと、その勉強力が欠けておった事に、僕は悟りました。そこを気付かせて頂いて、また、あらためてお願いに来た。」と、こう言うのです。
「そんなら行くがよかばい、意欲があって行くなら必ず頂いて帰っててくるものがあるにちがいない。けど、どうでもよかごたることならら行かんがよかばい。」とね。 私はそういうようなね、言うなら、お互いの生き方が例えば、御神意一つ伺うでもです。ね、もう親先生任せと言うなら、そういうことしかない、と、私は思うですね。
商売なら商売を本当に、自分の御用とさせて頂いておるなら、その御用がいつも生々となされておらなきゃならない。ね、昨日、月末御礼信話会でしたが、中で、久留米の佐田さんが話しておられましたが、ね、とにかく、活気のある、と、いうこと、人によって活気のある人ない人がある。真面目であるけれども活気がない。真面目では・・・、真面目と言うが、ま、ある意味で、あそこの従業員の方の事を言っておられましたが、もう、よくミスをする。
けれども、その人はとにかく活気がある、と、いう話をしておりましたですね。教会でも。やはり活気が、活気と言うのは生活の活です、と、生きる、と、いうこと、ね。
言うなら、生々とした内容をもったお店、生々とした雰囲気をもった、言うならば、家族、家庭、ね。
そこからでなからなければ、言うなら、生々としたおかげは生まれない、ね。そこでです、ね、 どういう生き方に、お互いがならせて頂いたら、そういう生々としたものになるか、と。新二階のお部屋に額が上っとります、養素と書いてある、ね。元を養うという、ね、それを拝山という人が書いてある、それを掲げた時に頂いた御理解が養素拝山と言うことであった。
お互いがです、信心のことだけぢゃないですけれど、一つの養うこと、信心の養う素はどこにあるかと言うと、拝山にあるんだと、言うなら、山を拝むということ。
山ということは修行、その修行を拝んで受けていくという、それが信心を養う素になるんだと言うのです。
そういう信心に取り組ませて頂く。昨日、研修の時に頂いたんですけど、『思うようなおかげを頂くは浅き信心』と、頂いた。
お願いをしておかげを頂いて、本当に勿体ない勿体ない、本当に信心も出来んのに勿体ない、おかげ頂いて有難い、と言うのは浅き信心と言う。
浅き信心が悪いということではないですよ。素晴らしいことですよ。今日の御理解で言うならば、常日頃そういう神様の生々とした働きを頂き続けることは、素晴らしいこと。
なら、深い信心とはどういうことかと言うと、思いのままになら 右と願っても左、左と願っても右、と、いったような時をです、言うならば喜べる、言うならば神愛と感じれれる、もう、これより難儀な苦しいことはなかろう、と。
私の昔の借金断りに行く時に、もうとにかく、重い足を引きずるようにして借金の断りにいかなければならない時に、あの、善導寺の小川さんと言う人から、お相撲の話を聞いて、私の心が勇気百倍した。もうとにかく、足軽々と、それこそ意気揚々として借金の断りにいった、「もう、大坪さん、借金の断りも今日限りでよかばい。
と、言うてから、向こうの方から言われた。ね、」と、言うようにです、その難儀がもう、只苦しうて苦しうて、と、いう間はまだ浅い信心。考えてみると、それが、そういうようなことが、すべての点がそうであった。神様がこんなにしてきたえて下さる、この先には、どげなおかげ下さるだろうか、と、言うような明るい心である。
ね、そういう信心を、言うならば深い信心だ、と。そいう時を、かえって神様にお礼が言えれる、所謂、拝山である、山を拝む、という信心である。そこに信心の養素です、信心の、所謂、徳の素といったようなものが段々養われていく時である。そういう私は、信心ね、思うようにならない時に御礼が言えるような心を、私は、今日は信の力だと、信ずるからそう感じられるのである。ね。
だから信はやはり光りである、そういう、言うならば光こそお互いの持っておる提灯に火が灯るときではなかろうか。ね、そして、ついて来なさいと言うなら、誰でもやはりついてくようなおかげになると思います。
「まさかの折りには天地金乃神と言うに及ばん金光大神助けてくれと言へば助けてやる」と、いう、そのまさかの折りということも勿論ございますから、助けてもらわなきゃならないけれども、その常日頃がです、ね、私は金光大神の言うことに背かぬように、と、仲々大変なことですけれどもね、それこそ、一言でも二言でも本気で行じさせてもらい、貫かせてもろうて、日々神様を身近に感じていっておらなければ、まさかの時には、もう、金光大神、こげな大事な時に金光大神言うのを忘れとった、と、いうふうなことになりかねないのです。そして人だ者だ、というふうに、神様以外なものに縋る頼る、といったような事になったんでは相すまん、ね。おろたへてはいけません。いや、おろたえんですむ信心を、常日頃る頂いとかなきゃならない。そして、言うなら、めざすところ、私共がめざすところが、ね、あら自分の信心はこんなおかげを頂いておる、有難い、けれども、これは浅い信じ。ね、そして、思うようになら無い時に、その事が拝める、拝山の心の状態を目指して頂いての信心、それを深い信心、だから、この両方がね、頂ける。浅い信心がいかん、と、いうのではないです、浅い信心によって日々有難い、言うならば、それこそ勿体ない。
昨日、安武先生が発表してられましたが、「本当に、こんなに有難い、こんなに勿体ない、これは大体本当のものぢゃあるだろうか、と、自分で時々疑わしくなる位に有難い。」と、こう言われる。ね。
「高校の先生には、とにかく珍しい先生だ。」と、私は思う。
お話を聞くと、もう本当に、自分の周辺におきてくるその問題、というか、事柄の総てが本当有難い、ありがたい、と言わずにおれない。こらは、本当なものであるだろか、と、自分で思われる程しの信心ね。そういう信心を、やはり土台としなければならない、ということ。そういう信心を基礎としてです、そして、なら、思いのままにならぬ時、喜べる信心、それは神様を信ずるから出来ることである。
信は、言うなら力であると同時に、光である。ね、そういう光がお互い手許に持たせて頂いておる提灯に、火が灯ることになる。ね。
今月は、どうでも、そういう、ね、自分の持っておる、ただ、ついて来なさいこの提灯に、だけではいかん。この提灯に光が入らなければ人はついてこない、ね。言うなら、光のある提灯を持たせて頂いてです、いよいよ合楽示現活動に参画したいと思うです。 どうぞ。